皆さま、ごきげんよう。
たいぶ秋めいてきましたね。
しかし「乙女心と秋の空」とはよく言ったものですよね。
大雨の後、こんな夕焼けが見られるなんて、まさに乙女心とおんなじ。w
私もこれまでは割と感情の起伏が激しく、多々人様には迷惑をかけてきた気がします。
ご迷惑をおかけした皆さま、本当にスミマセンでした💦
しかしながら、最近ではやっと大人になってきたようで、だいぶ落ち着いてきたと申しますか、コントロールできるようになってきた気がします。
年齢と共に段々面倒臭くなってきたという気もしますが。w
この夏に、修論調査のインタビューで、自死遺族の方々にお話を伺わせていただく機会がありました。それはそれは大変貴重なお話で、研究とはいえ、非常に個人的な深いお話をしてくださった皆様には本当に感謝しています。誠にありがとうございました。
今回のインタビュー調査の際に私がとても気を付けていたことは、
感情に流されずあくまで客観的にニュートラルな態度でお話を伺う
ということでした。
これは、指導教員から再三気を付けるように指導されていました。
特に私は感情的になり易いたちなのを完全に見抜かれていまして、今回は当事者研究でもあることから、インタビュー調査の際には自分でもかなり戒めていたつもりです。
その甲斐があってか、予想以上に淡々とお話を伺っている自分に気づきました。もしかして私って冷たい人間なんじゃないの!?と思って、一瞬凹みました。
が、研究においては過度なバイアスと見なされないように、そのような態度で臨むことが必要とされましたので、元々感情的な私にとっては良い訓練になったともいえます。
今回は特に研究者(の卵)という立場であったので、当然のことながら不適切に私情を挟んだり、過度に感情移入することは避けていたつもりです。
しかし、私もやっとそんな風に人のお話を聞くことが出来るようになったのかなー、と思います。親にもそう言われました。やっと大人になってきたということでしょうか。
勿論お話を聞いていて私の感情も動きますし、感じることはありますが、それをすぐに口に出してしまうのではなく、一旦受け取るというのでしょうか。
それはそれとして、意識して分けて考えられるようになったのかもしれません。
とある研究会で「対話」について対話してみたりすることがあります。
打ち合わせで話し合ったりすることがあります。
お仕事の会議で議論することもあります。
そんな中でも、人のお話を伺うという感覚が以前と変わってきているような気がするのは、今回インタビュー調査をさせていただいたお陰かもしれません。
勿論まだまだ感情移入バリバリで、直ぐに口を出してしまうこともありますけれど、余計なことを言ってしまうこともありますけれど、人との会話、対話を楽しんでいきたいなと思うようになってきた気がしますかね。
そこで最後になってやっと今日のタイトルなんですが、
しかし、「対話」ってなんでしょうね?
ここ最近の私の中でのホットなテーマの一つです。
「会話」と何が違うのでしょうか?
「議論」とは何が違うのでしょうか?
「対話」することで、私たちはどうなるのでしょうか?
「対話」するということは、何を意味するのでしょうか?
死生についての「対話」は可能でしょうか?
そんなことを考えつつ、修論研究が佳境に突入していくのでした。
「対話」については、また追々触れていきたいと思います。
今日はこれでおしまい。
Thanks,
Chigusa