thousandgrass’s fields

一日一生の毎日を。

本年は和を以て貴しとなす年に。

皆さま、新年明けましておめでとうございます。

遅くなりましたが、旧年中お世話になりました皆様には心より感謝申し上げます。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

2018年が幕をあけまして、皆さま良い新年をお迎えのことと存じます。

私は、修論の口頭試問当日に修論のコピーを忘れていたことに気づき、絶望的な心境で大学の事務センターとコピー室を探して駆けずり回る、という何とも心臓に悪い初夢で目覚め、

いよいよ最後の修論追い込みなのに、なぜか加筆修正2時間分が飛んでしまう(消失してしまう)というショッキングな出来事で意気消沈な新年を迎えております。

が、気を取り直して地道に最後までやり遂げようと思っております。もうこうなったらとことんやってやる!という心境です。

 

というわけで、本年はまず修論を完成させて口頭試問を突破し、最終版を書き上げて無事に修士課程を修了することを目指したいと思います。そして、また次のステップへと進もうかと考えています。

 

これまでお仕事にしろ研究にしろ、割合個人で動くことが多かったのですが、今年はチームを組んで力を合わせて事を成し遂げていきたい気がしています。

漢字一文字で表すとすれば、これまではどちらかというと「個」、これからは「和」という感じでしょうか。

お仕事のPJとか共同研究とか、自死遺族の会とか死生の対話の場とか、既にいくつか良いチームの兆しがありますので、仲間と共に力を合わせて人や社会に貢献していけるよう尽力して参る所存です。

 

というわけで、

本年は和を以て貴しとなす年にしたいと思っております。 

和を以て貴しとなすとは、何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良いということ。


【注釈】 人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教え。
聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉。
礼記』には「礼は之和を以て貴しと為す」とある。
「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではなかろうか。

出典:故事ことわざ辞典

 

意味を調べてみると、まさに人と人と「対話」が大切なのではないかと思います。

人との「対話」を諦めてしまうことなく、お互いに理解し合いながら力を合わせて事を成していけるよう私も努力をして参ります。そして皆さまのご助力のほどを、何卒宜しくお願い申し上げます。何より健康第一で一日一生を楽しんで参りましょう。

 

2018年が皆さまにとっても良い年となりますよう、心より祈念して新年のご挨拶とさせていただきます。

本年もどうぞ宜しくお願い致します。

 

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PS:戌年にちなんで。

私も相棒たちと共に新しい物語を紡ぐ面白い一年にします!

 

Thanks,

Chigusa

 

 

 

 

 

サンタクロースマッチョ説

皆さま、ごきげんよう

 

今年はなんだか寒さが厳しいですね。

我が家はわりあい冬でも日中は窓を開けていることが多いのですが、今年はそれはマズイです。例年よりなんだか寒いし、今年はいま倒れるわけにはいきません。

なぜなら、まだ修論が終わっていないからです。これから一晩たりとも寝込めません。

ま、心は既に倒れているともいえますが。

 

さて、今日は世間ではクリスマスイブですね。

うちはどうやらクリスマスの制度が廃止になったようなので、若かりし頃のようにキラキラ、ワクワクした躍動感はないのですが、、、

現実逃避の間に

 

サンタクロースマッチョ説

nlab.itmedia.co.jp

 

なるものを発見してしまい、にわかに独りでワクワク☆ドキドキしています。

 

サンタクロースは、太っちょのおじいさんには務まらないお役目だということが説明されていて、面白いです。理論上納得。

今後のことを考えると、もうちょっと若いマッチョでもいいのかもしれません。

 

私が某キリスト教系短大に在籍していた頃の学長先生は、白くてゆたかなおひげをたくわえた本物のサンタクロースのような神父様でした。

そして私は寮でお祈り係なるものに就いていて、お御堂で夕方の御ミサに参加したりしていました。寮生によるクリスマスパーティも本当に楽しかった思い出です。

当時はクリスマスには縁があったので、制度が(自主)廃止された今、なんとなく寂しいような、せつないような。

 

叶えられないとは知りながら、せめてもお願いだけはしておきたいと思います。

 

マッチョサンタクロースさんへ

ことしはしゅうろんのさいしゅうばんがほしいです。

うちにえんとつはないので、めーるぼっくすにいれてください。

いいこにしてまっています。

 

 

現実逃避にお付き合いいただき、ありがとうございます。

皆さまは素敵なホリデーシーズンをお過ごしくださいませ!

 

Thanks,

Chigusa

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修論執筆には必ず終わりが来る。

皆さま、ごきげんよう

気が付けばあっという間に師走になっていました。もうビックリですね。

 

世間では

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関連の話題でにぎわっておりますが、

最近の私の最大の話題は、修論執筆に追い込まれていて心身共に灰になっていることです。

 

いよいよ修論提出まで日が迫ってきておりまして、

分析やり直し → フルボッコ (→心が折れる・マヂもうヤダ)→ 苦労した末になんとか光が見える → とりあえず書く → ありがたい(クリティカルな)ご指導 → とにかく書きまくる → 書いても書いても終わりが見えない → 日常生活がままならない → 心身ともに灰になる

というような感じで全てが灰色のループに思える日々です。が、今は辛抱して修論生ならではの辛さを味わいまくっています。

そういうわけでなかなかブログも更新できませんでしたが、やっぱり息抜きも必要ですね。ほんとに身も心もクタクタで正直シンドイのですよ。

 

自分が選んだ道ですし、研究の内容そのものには高いモチベーションがあるのですが、初めての調査研究論文執筆の道のりがしんどいことには変わりはありません。いわば研究の初学者ですしね。

たとえるなら、頂上が見えたと思ったら厚い雲に囲まれて、足元の一歩一歩を見ながら登ってやっと頂上に着いたと思ったら、また次の峰と急斜面が見えて、また一歩一歩進みながら次の頂上を目指す っていうのを何度も繰り返す感じでしょうか。(ある意味地獄)

高尾山を登っているのかと思ったら、富士山だったことに気づいたけれど、ほんとはアコンカグアを登ってた、みたいな。

アコンカグアっていうのは南米最高峰の山のことで、旅行取り扱い責任者の試験勉強をしていた時になぜか響きが気に入って、何度も口に出して言いたくなるのです。なんかカッコイイでしょ?w

 

こんなことを一生やっていたら本当に病んでしまいそうです。でも、修論には提出締切があって、必ず終わりが来ることが幸いです。 

そして、今回の調査研究で貴重なお話を聴かせてくださった研究参加者の方々のことを思い浮かべることが一番のモチベーションになっています。

闇の中を暗中模索している最中は周りは真っ暗ですが、出口に近づいて少しずつ光が見えてきて、いつか出られるのだと思えば、もう進み続けるしかないですね。

出口の無い暗闇なんて無い、と思えることは幸いです。

けど、もうほんと早く脱出したいです!

指導教員は「まだまだ最後まで書き直せるから焦らないでいいよ」って仰っておられますので、まぁ焦りますけど最後まで諦めずに粘り強く取り組みたいと思います。

無事に修論を提出して、口頭試問を突破して、最終締め切り(2月の中旬)を迎えたら、もう呑みまくります。旅行しまくります。皆さま遊んでくださーい!

 

久しぶりの更新がただの愚痴の記事になってしまいました。スミマセン💦

きっと全国の修論生も同じようなことを味わっておられるかもしれませんので、気休めになれば幸いです。

修論執筆には必ず終わりが来ることを心の支えに、あと少し頑張りましょう。>わたし

身勝手ながら、皆さまからのご声援も謹んでお待ち申し上げております!

 

Thanks,

Chigusa

なぜ私は論文が書けないのか。

 皆さま、ごきげんよう

台風が猛威をふるっているようですね。大きな自然災害に繋がらないことを祈ります。

 

さて、修論研究も佳境に入ってきました。

そんな中、心が折れそうな出来事がちょいちょい起こっています。まぁ実際にはもう何度か折れましたけれども💦

修論生である以上、苦労することは分かっていましたが、それでもシンドイ時はシンドイものですね。

なんか上手くいかないことがあって大きく凹んだ日に、比較的大きなお買い物をしてしまったことがあって、自分が「ストレスを発散していること」に気づきました。

ストレスをストレスであると自分で認識できた事は良かったと思うのですけれど、結構メンタルが弱りそうなんですよね、修論執筆って。

 

そこで、学会会場の書籍コーナーでタイトルを見て軽く衝撃を受けた書籍のことを思い出して、購入してみました。

なぜあなたは論文が書けないのか?

なぜあなたは論文が書けないのか?

 

え?自分のこと!?と思うのは私だけではないはずのこの挑戦的なタイトル。

読んでみると、今まで誰も教えてくれなかった(気がする)大切なことが書かれていました。

 

論文執筆のお作法やテクニック的なことも大いに役立ちそうですが、それよりも

「何のためにあなたは論文を書くのか、明確な答えがあるか?」(pp.8-9)

 

「論文を書くことはあなたの人生にとって無駄ではないと言い切れるか?」(pp.10-11)

 

「論文作成の大部分は『単純作業』だと認識しているか?」(pp.20-21)

(佐藤雅昭、2016、『なぜあなたは論文が書けないのか』、メディカルレビュー社)

という問いと解説を読んで、 私が修論を書く意味やモチベーション、時間の使い方を考え直す良い機会になりました。

 

幸いにして、何のために私は論文を書いているのか?という明確な答えが私にはありますし、論文を書くことは私の人生にとって無駄ではないと言い切れるので、必ず目標に到達するという決意を新たにしました。

そして、大部分が単純作業であると捉えられるのであれば、あとは淡々と進めるだけだと、焦りも少しは軽減出来た気がします。まぁ焦りますけどね。

なぜ私はまだ修論が思ったように書けないのか、について痛いところを突かれたような気がして、薄々理解できました。この時期に本書を読んでみて良かったです。

 

本書は医学系の英語論文を書くことが念頭に置かれていますが、他にも論文執筆のためのポイントが研究者&査読者の視点から分かり易くまとめられています。

私のような初めての修論生にとっては良書と言えるのではないでしょうか。

 

しかし論文執筆もお仕事と同様にトライ→エラー→立て直しの連続ですね。

これからもきっと心が折れることはあるでしょう。

いや、間違いなく何度もあるでしょう。嗚呼、シンドイ。

それでも諦めずに何度でもやり直す粘り強さと、しなやかさを諦めないでいようと思います。

特に、指導教員から何を言われようと、研究や論文執筆はあくまで人生のほんの一部に過ぎないことを忘れないでいたいと思います!

 

それと、たまの息抜きは必須だと思ってます。←ココ最重要

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というわけで、全国の修論生のみなさま、ご一緒に最後まであきらめずに修士課程の修了を目指して、この冬を健康第一で乗り切ってまいりましょう。

 

Thanks,

Chigusa 

 

 

学会発表しました:「自死遺族という生き方ー行動と関係性の視点からの検証ー」

皆さま、ごきげんよう

 

東京は急に寒くなって連日雨降りですね。

個人的には喘息注意報ですが、皆さまもどうぞ温かくしてご自愛くださいませね。

 

さて、週末は学会に参加して参りました。

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私は日本臨床死生学会に所属しておりまして、

二日目に自死遺族という生き方ー行動と関係性の視点からの検証ー」という発表をさせていただきました。

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まず、本研究におけるインタビュー調査にご協力いただきました自死遺族の皆様に、心より厚く御礼申し上げます。

皆さまのご理解とご協力なしには今回の研究は成立しませんでした。

不躾なお願いをしたにもかかわらず、快くお引き受けくださり、お時間を割いて沢山の貴重なお話を語っていただいたことに、深く深く感謝しております。

本当にありがとうございました。

 

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 今回は時間も限られていましたので、分析結果のほんの一部しか発表できませんでしたが、皆さまから伺った貴重なお話を社会へ伝えていく一歩を踏み出せたものと思っております。

発表終了後にはご質問もいただき、本研究にご興味をもっていただいた方とお話させていただく機会にも恵まれました。

今後まずは修士論文という形でまとめますが、いずれ学術誌への投稿という形でも成果の発表させていただきたいと考えております。

繰り返しになりますが、今回インタビュー調査に応じてくださった自死遺族の皆さまとご一緒に研究させていただいているものと考えていますので、その成果を研究という形で今後も広く社会へ伝えて参ります。

 

発表ではお話できなかったのですが、今回のインタビュー調査でとても印象的だったことは、

支援というよりも「うつ病自死自死遺族について理解してもらいたい」という声が多かった

ということです。

特に自死は病死である」と語られた方が多く、そのような認識が今後社会にも広まることを願っていますし、そのための研究を続けていきたいと考えています。

 

学会でも、

シンポジウム8 がん患者と自殺の問題に向き合う

というセッションでは、

「自殺者の約90%が自殺時に何らかの精神科診断がつく状態であった」

ことを専門家の先生方がお話されていました。

このお話と会場での議論を聴いていて、やはり「自死は病死である」という認識が、ある意味正しいのではないかと思います。

 

このことについては、自死遺族の会のブログにも考えたことを書きました。

alphaandomega.hatenablog.com

 

このようなことを正しく理解し、自死遺族の生きづらさを軽減していくためには、私たちと社会はどうあるべきか?を引き続き考えていきたいと思います。

 

残念ながら日本では未だ自死自死遺族に対する偏見や差別、社会的スティグマが無くならないのが現状です。

この実態の解明や改善策を考えるべく、今後も引き続き自死遺族についての研究を続けていきたいと考えています。そして、社会における実践で貢献して参りたい所存です。

今後ともご理解、ご支援のほどをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

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 ちょうど1年ほど前には初めての学会発表を経験しました。

thousandgrass.hatenablog.com

あれから1年経って、調査研究という一つの形になってきたことを思うと、これまでの(なかなか険しい💦)道のりも、やはり有意義であったと言わざるを得ません。

高額の学費を払ってまで、なんでこんなしんどい思いをするんだろう、、、と時々心が折れそうになるのが正直なところですがw、それを鑑みてもなお、研究というのはやはり面白いものであるということを実感している次第です。

 

今年の学会では、私が所属する研究室から修士生3名、学部生2名、卒業生1名が発表を行いました。 

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終了後の打ち上げでの黄色いシュワシュワが格別に美味しかったことは言うまでもありません!

 

ご参加された皆さま、運営に関わられた皆さま、大変お疲れ様でございました。

ありがとうございました。

 

Thanks,

Chigusa

 

 

 

 

 

TV番組で語られる死生のことと対話の場と機会。

皆さま、ごきげんよう

 

今日は早速なのですが、近頃TV番組を通じて死生のことを考える機会が増えています。

普段某TV局の番組は絶対に見ない(諸事情と理由があって信用していない)私にしては大変珍しく、以下の二つの番組を観ました。

 

www.nhk.or.jp

↑最初の記事ではリンク先を間違ってしまいましたので、差し替えました💦(10/1)

hh.pid.nhk.or.jp

 

やはりどちらの番組も私個人的には懐疑的な目で見てしまいましたが、良くも悪くも興味深くはありました。

 

NHKドキュメンタリー - ありのままの最期 末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日

については、院ゼミでも話題にのぼりまして、緩和医療の描き方とか、緩和医療のあり方について話し合ったりしました。

私個人的には、番組内で何度か出てきた「理想的な死」というキーワードがとても気になりました。

「理想的な死」なんてあるのでしょうか?死に理想を求められるのでしょうか?

「理想的な死」が仮にあるのだとしたら、「理想的ではない死」があるのでしょうか?

もしかすると「穏やかな死」とか「穏やかな最期」というのも同じことかもしれませんね。

 

NHKネットクラブ 番組詳細(新世代が解く!ニッポンのジレンマ「死生観のジレンマ~今、死ぬということ。~」)

については、若い世代が死生について何を考えているのか、その一端を垣間見ることができて、なかなか面白かったです。

みんなそれぞれ、死に対していろいろな考え方があるものですね。その類似点とか相違点を考えていて、もっと多くの人の話を聞いてみたいと思いました。

 

 

そして、過去の記事でも書いたように、

thousandgrass.hatenablog.com

死生についての対話というものをやってみたいと強く思いました。

NHKネットクラブ 番組詳細(新世代が解く!ニッポンのジレンマ「死生観のジレンマ~今、死ぬということ。~」)

自体がいわば対話であったと捉えることもできますが。

 

上記のように、TV番組で語られるような死生のことについて、何を思って何を考えたか、自由に対話ができるような場と機会があれば面白いと思うのですよ。

 

「対話」とはなんぞや?ということを考える必要はあるのですが、とにかくいろんな人と、死生やあの世この世についての様々なことを、喧々諤々しながら意見を交わしてみたいな、ということになりますかね。

 

きっと面白くなると思うのですよ。きっとみんな考えていることが大きく違うから。

全く違うことを考えている人の話を聞くのって面白いですよね。

そして、意見の違う人が寄り集まって、ああでもない、こうでもない、とカオス状態になるところから対話が始まるのじゃないか、とも思ったりします。

 

そんな面白そうな機会と場を提供できるように、お仲間と共に準備を進めていきます。

準備が整い次第、ここでもご案内したいと思っていますので、乞うご期待です。

 

たまには某TV局の番組を観てみて、そんな面白そうなことに考えを巡らせる秋なのでした。某TV局の番組もたまには役立つものなんですね。w

 

Thanks,

Chigusa

 

 

アンドロイドも死生を考える。

皆さま、ごきげんよう

10月ですね。秋ですね。

最近なんだかいろいろ考えることとか、やらなければならないことが多くなってきて、なんだか焦ります。

これから佳境を迎える修論、の前の学会発表とか、今後の進路とか、お仕事のこととか、イロイロ気ぜわしいのですが、現実逃避も激しい今日この頃です。

 

私の現実逃避の手段の一つは、映画を観ることです。

TVは大抵映画専門チャンネルをつけていて、結構な数を観ている方だと思います。

中でも、近未来モノが好きなことは以前に気づきました。

 

そこで目にしたネットニュース。

言わずと知れた近未来SF映画の金字塔『ブレードランナー』の続編が公開されるようなんです。

www.bladerunner2049.jp

 

そこで、前作「ブレードランナー」を再び観てみました。

 

ご覧になっていない方のために内容は割愛しますが、ものすごーく大雑把にいえば、近未来(公開は1982年、舞台は2019年)のアンドロイド(レプリカント)と人間のお話です。

 

以前観た時には、アンドロイド(レプリカント)とは何か?人間とは何か?を考えさせられたように記憶しています。

 

しかし今回再び観てみて、死生を考える映画なんだ。って思いました。

私が大学院で主に死生学を学ぶようになったこととか、お仕事でアンドロイドのことに関わっていることとも関係しているとは思うのですが、アンドロイドと死生のことって、実は切り離せない命題のようですね。

 

以前の記事では、アンドロイドに死は訪れるか?ということを考えていたことがわかります。

thousandgrass.hatenablog.com

この記事の中でも「ブレードランナー」について言及していましたね。 

よっぽど好きなようです、この映画。

ついでに原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も読み返してしまいました。

映画は、この原作を元にしていますが、残念ながら電気羊のくだりは出てきません。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 

 

しかし、今回改めてラストシーンを観て思ったのは、

アンドロイドも死生を考える。

し、

レプリカントも人間も同じではないか。

ということでした。 

 

詳細は差し控えますが、生命の有限性とか、より長くいきたいという願望とか、仮に余命を宣告されたとしたら、何を考えてどう行動するのか、というような観点は、レプリカントも人間も同じじゃないの!と、見終えて愕然とさせられました、今回は。

要するに、死生のことを考える映画なんだと、個人的には見方が変わりました。

ついでに言うと、「tears in rain」という表現はなんて詩的で美しいんだろう!と。

 

ご興味を持たれた方は、ぜひご覧になってみてくださいね。

いつかこの話題でも対話をしてみたいものです。

 

そういうわけで、今月公開される新作にも期待が高まります。

新作ではどのような物語が展開されるのでしょうか。

レプリカントと人間の関係はどうなるのでしょうか。

再びアンドロイドも死生を考えるのでしょうか。

 

※この画像はWikipediaからお借りしました。 人造人間 - Wikipedia

 

私は人間なので、引き続き死生のことを考え続けてみたいと思います。

 

Thanks,

Chigusa